自分が一番つらいとき傍には誰もいない時もある
自分が一番つらいとき、自分の傍から人が離れていくという経験をしたことがある。
これはかなりつらい。
ただ、この経験から、私に対して無責任でしかいられない他人の言うことを聞く必要はないという実感を持てた。
サヨナラ他人。こんにちは私。
さらに、私に対して無責任でしかいられない他人の言うことにいちいち傷つく必要もないということも腑に落ちた。
No pain, no gain.
痛みと共に得られることも大きい。
痛みの渦中にいるときは全てを失っている感覚に陥るが、後から痛みを振り返ったとき、得られたものに気づく。
ありがたいことだ。
得られるまで、生き延びねばならない。
宗教勧誘
宗教勧誘を受けたことがある。
面白そうだからついていった。
確か父も、宗教勧誘を受けたことがあった。
父は、暴力反対を掲げる宗教団体に勧誘されて、教祖と以下のような会話をして追い出されたと言っていた。
「俺の妻が目の前で殴られている時でも、殴り返してはいけないのか?」
「はい、だめです。」
「じゃあどうすればいいのか。」
「…祈りましょう。神が助けてくださいます。」
「俺の妻が目の前で殴られていて、今にも死にそうで、助けて!と言っていても、殴っている人間を殴り返してはいけないのか?」
「…祈りましょう。神の助けを待つべきです。」
こんな調子で会話を繰り返しているうちに、周囲の信徒たちが動揺しだしたことで、追い出されたらしい。
父は死んでいる。
自由人だった父と同様の体験をできることがうれしかった。
私は、キリスト教とインド仏教を信仰する各団体、計2団体から宗教勧誘を受けた。
キリスト教の方ではもめた。
「何でも質問していいよ。」
と言われたから、キリスト教のストーリーの中で、辻褄が合わないと考えたところを質問し続けた。
「神を信仰するというのはわからなくもないのですが、特定の牧師を信仰するというのは、私にはできないです。牧師さんはただの人間ですし、牧師さんが間違えることはないのですか?」
この質問が、地雷を踏んだらしい。
「私の大事な牧師さんを否定することは許せない。あなたは心のどこかにゆがみがあるんだと思う。私は傷ついた。」
「私の質問に答えてください。牧師さんは、間違えることはないのですか?ちなみに、心のどこかにゆがみがあると言われて、私が傷つきました。」
このように揉めて、バイバイした。
インド仏教では、
「キリスト教も今学んでいるんですー。」
と言ったところ、
「キリスト教と縁を切らないなら、教えない。」
と言われ、バイバイした。
かわいいな、宗教勧誘。
透明人間
変人と呼ばれることが多い。
変人と呼ばれると、何でも許されるようになる。
キャラ変しても、
「変人だから仕方ないよね~。」
叫びだしても、
「変人だから仕方ないよね~。」
踊っても、
「変人だから仕方ないよね~。」
これマジ便利。
「誰も私を見ちゃいないから、何をやったって大丈夫。」
そういう気分になれる。
変人変人と私を呼ぶ人のことも私は変人だと思っている。
満員電車は面白い。
頭のおかしいやつらがこんなにぎゅうぎゅう詰めになっていて、笑ってしまう。
「こいつら全員頭おかしいんだろうなー。
みんな同じ顔している満員電車なんて嫌だとか言う人いるけど、そんなことないぞ~。
こいつら全員頭おかしいんだぞ~。」
解離
先日、精神科に行ったら「解離」だと診断された。
ワオ、しんどい。ワロタ。
以前、「記憶喪失」というタイトルでブログ(https://fushiginokuni.hateblo.jp/entry/2019/11/16/175352)
を書いたが、その内容を医師に話したところ、かかる診断が下された。
ワオ、まじかよ。まじだったんだ。
自分が精神病者であることなど認めたくないために、今まで精神科を受診していなかった。
だが先日、ふらっと行ってしまったのだ。
何の気なしにふらっと行って、ふらっと診断されて、ふわっと持ち帰ってきた。
あ、やっちまった。自分の過去を精神病と結びつけてしまった。
そんなことしたくなかった。
どんな精神状態であれ、それが現状であると認め、肯定し、
そのまま生きていこうと思っていたのに、
「異常」を「修正」しなくてはいけない気になっている。
だが現実、そんなこと無理だ。
精神薬も使いたくない。
解離に助けられたことはたくさんある。
むしろ、感謝している。
この子を手放したくない。
治療しなくていい。
このままがいい。
解離のままがいい。
解離で困ることもあるけど、それは、限界を教えてくれるだけだ。
解離、好き。
解離するときにあらわれる黒い自分は、私の大親友。
治療されても、治療されたふりしてずっと保存しておいてあげるから、心配しないで。
私の中から親友が消えていくのは嫌だよ。
これからも仲よくしようね。
チンコという武器をどうしようか
レイプされたらどうしようとたびたび考える。
レイプへの正当防衛は、チンコの根元を切断することだと考える。
「サイバンチョウ!何がいけないんですか!
私は彼からチンコという武器を取り上げただけです!
レイプを実行するための最重要かつ直接的な武器はチンコですよ!
攻撃されたら、相手の武器を取り上げようとするのは当然でしょう!
私、頑張りました。
チンコの中に骨が通っていないから切断しやすそうだということもレイプ被害予防のために学習済みで、事前対策はばっちりだったんです。
加えて、レイプ犯のチンコをそげば将来の性犯罪も予防できると考えたんです。
これは本裁判の最高目的である国家の治安維持にも適います。
正当防衛として取り扱われるべきでしょう!
これ以外に、レイプにおける正当防衛が成立する事態を想定できますか?」
「被告人、落ち着きなさい。」
「落ち着いてられるかあ!」
「正当防衛の成立要件をよく調べましょう。」
「よくわかんないですけど、大体自分が被る被害と加害行為が同程度であればよいのですよね?
レイプは、魂の殺人と言われます。
チンコをそぐのも魂の殺人に当たりそうです!
同程度ではありませんか?」
「要件はほかにもあります。我々はあなたの価値判断に左右されず、正当防衛成立要件該当性を評価するだけです。」
「いぇす、あい、のう。ばっと、言っときたいことってあるじゃないですかあ!」
「そうですか。」
裁判で評価されないとしても、
レイプされた時があったならば、このようなことをしてみたい。
「自己責任」社会に大人気の「認知行動療法」を悪用すれば「サイコパス」になれる
「自己責任」「認知行動療法」「サイコパス」がパズルのピースみたいにうまくはまった体験があったから書いておこうと思う。
自己責任が、自分の主観にも及んだら?
自分の主観も、自己責任ですよ。
辛いことがあったとしても、そこでどのような主観を持つかはあなたの責任ですよ。
「辛い」という主観の原因は「辛い出来事」かもしれませんが、「辛い」という主観の責任はあなたにありますよ。
「辛い」という主観を放置して、心の傷が深くなったとしても、その責任は「辛い」という主観の責任をとれていない自分にあり、「辛い出来事には」ありません。「辛い出来事」にあるのは原因だけです。
自分の主観の責任を取らなくっちゃ!
そこで便利なのが、認知行動療法。
認知行動療法とは、
「ものの受け取り方や考え方に働きかけて気持ちを楽にする精神療法の一種」。
「辛い」という主観、認知に働きかけて気持ちを楽にしよう。
そうして、「辛い」という主観の責任を取ろう。
例)
「お父さんが自殺されたんですね。でもそこから得られた何か良い教訓もあるのではないでしょうか。」
「お父さんは生きているとき辛そうだったから、死んで楽になったと思います。お父さんは自ら幸せになろうとしていたんだと思います。幸せになる、という自己実現の達成なんですね。そう考えると、なにも辛くないです。」
「自殺は辛い出来事ではなく、幸福になる自己実現の達成という教訓を得たんですね。今後、その教訓はどのように生かせると思いますか。」
「自殺者の本当の望みに寄り添えると思います。」
「というと?」
「幸せになりたい、という望みです。」
みたいな。
例2)
「志村けんさんがコロナでお亡くなりになられましたが、どのようにお考えですか。」
「悲しいです。しかしながら、志村けんさんは、コロナの脅威を伝えるという最後の功績を残してくださったと思います。」
みたいな。
「辛い」という主観に引きずられて悪化する前に、「辛い」という主観の責任を取って、前を向けるようにする。
認知行動療法の使用があまりにも迅速だとサイコパスに思われがち。
サイコパスは悲しみを感じないと言われたりするけれど、そうだとすれば相手の感情をよく理解できるというサイコパスの特性と矛盾する。
悲しみを感じないのではなく、自分が悲しみを感じたとしてもその感情の責任を取ることがうまいのだと思う。サイコパスは、認知行動療法自己適用のエキスパート。
自己責任社会に人気が出そうな認知行動療法。
自分の主観は自分で責任を取りましょう。
そのために、認知行動療法という方法があります。
そのエキスパートになればサイコパスと認知されることもありますが、
それは彼らの認知に過ぎません。
悲しみを味わって日常生活に支障が出る前に、
主観の責任を取りましょう。
悲しみを味わって深みにはまっても、それはあなたの責任です。
脳内で死にたいって言わないようにしよう
死にたいとき、脳内でいつも「死にたい。」と言っている。
この言葉が、リピートして止まらない。
私が死にたいのは、死んだら、おうちに帰れるという感覚があるからだ。
おうちに帰りたいというテンションで「死にたい。」と言う。
地球旅行中なんだという感覚。