くるくる

このワケワカメな世の中への考察

他己責任を明確に定義したい。

自己責任、他己責任、環境責任。

今回は、他己責任を考える。

ケーススタディ方式とるでい!

1、レイプされた。

友達に相談すると、

「レイプされたお前が悪い。」と言う。

2、いじめられた。

友達に相談すると、

「いじめられるお前が悪い。」と言う。

 

…えー、あるあるですね。

なんですかこれは?これに反論したいです。

これらの主張の論理は、

レイプされる、いじめられる原因は

お前にある。

お前が性欲を喚起するような格好をしていて、

お前が弱い、

のが原因だ、という論理ですね。

 

ただ、この論理は、

性欲を喚起するような格好

=セクシーな格好をする自由

いじめる側としては弱いと認識されるが、

本人としてはありのままの自分でいる自由を

抑圧することを強制しています。

 

その代わりに、

セクシーな格好をしているなら

レイプができる自由、

いじめる側からすれば弱そうに見える、

ありのままの自分を表現している人間は

いじめてよい自由を主張しています。

 

無理無理ー!そんなの耐えられないよ!

なんでセクシーな格好をして、

ありのままの自分でいる自由が抑圧されなきゃいけないんだい。

 

という訳で、せっせと論理構築。

 

「相棒」の右京さんは

こんなことを言っていました。

「人を殺したくなっても、

そうしない選択をするのが人間です。」と。

 

ここから、人間の内心を願望と選択という

2つのフェーズに分けてみましょう。

レイプしたいと望んでも、

いじめたいと望んでも、

それを選択しないのが人間です。 

 

願望を喚起する原因が相手にあれど、

選択の原因は個々人の自由意志にあります。

 

レイプ、いじめの原因は、

願望の喚起ではなく、

加害者の選択にあります。

願望が喚起されても、

それを実行しない選択肢もあります。

選択は、

被害者が原因となるものではありません。

加害者の自由意志が原因です。

 

責任を問える場合というのは、

願望の原因を作った場合ではなく、

選択の原因を作った場合と言え、

選択の原因は自分の自由意志に他なりません。

 

他己責任とは、

他者の選択に課される道義的責任

と、定義されると考える。