くるくる

このワケワカメな世の中への考察

人を殺さない理由

人を殺したくなる時があります。

 

なぜ殺してはいけないのか。

・相手の可変性も含めて抹殺してしまうから

・そういう人間が再び現れたときの対処方法を考える機会を失うから

・自分が刑務所送りにされるから

 

いろいろあると思うけれど、

私が一番怒りの頂点にいるときに

最も自分を説得できる論理。

 

それは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・生かしておくほうが、殺したいやつも辛いだろうから

 

あ、まあ、この理由って、相手を殺す理由としても使えるんだけどね。

オウム真理教とかは、これを殺人の理由にしていたね。

生きるのは辛いから殺してあげるっつって。

これが、愛の実体化なのだって感じで喋ってたよね。

そういう論理構築をしたわけだ。

 

同じ理由でも、殺人肯定、否定双方の理由として使える。

 

こうなると、人間社会で論理ってのは道具でしかなく、

数学における

真理に至る道といえるかは難しいなあ。

 

論理は、組みたい方向に組み上げられる。

組みたい方向を説得的にするために論理が道具として活用されているだけ。

 

論理的だから正しいというのは大間違い。

論理的だから説得的ではあるが、

その論理はいかなる精神を選択し、それを実体化するために構築されたのか、

ここによって論理の是非というものは判断される。

 

論理は是非の根拠にはならない。ただあるだけだ。

是非の根拠は、

いかなる精神を選択し、それを実体化しようとして組まれた論理なのか、

その一点にある。

 

私は、殺人による愛の実体化という精神を実体化したくないから、

生かしておくほうが、殺したいやつも辛いだろうから

という理由を殺人否定の根拠として使った。

オウム真理教の主張した、

愛の実体化ならば殺人以外の方法によることもできる。

手段がそれ一択ではなかろう。

 

殺人をしたくなったら、私はいかなる精神を実体化したくて

この行為に及ぼうとしているのかと考えてみるといい。

 

世の不平等に気づかせるという精神を実体化しようとして

殺人に及ぼうとしているかもしれないが、

他の手段もあるのになぜそれを選択するのか。

それは効果的か?

 

殺人が、世の不平等に気づかせるという精神を実体化するのに

効果的かと問われれば、逆効果である。

ワイドショーで人格破綻者は一人で死ねと言われるだけで、

世の不平等に気づかせるどころか、

恵まれていない人には近寄らないほうがいいという精神を

社会全体により強めるだけだ。

 

もっと現実的に、効果的に自分の精神が実体化される手段を考えよう。

私はそのお手伝いするよん♡ 連絡ちょ♡