くるくる

このワケワカメな世の中への考察

優しさとはなんなんだろう

 

「優しさとはなんなんだろう。」

質問箱に、素敵な質問が届きました。

なんなんだろう、

という考えあぐねている感じが伝わる

表現も素敵ですね。

 

全ての人が

自分の結論と、その論理構築を持てる問い

ですから、

自分の結論と、その論理構築を持った上で

私の見解をご覧いただくと

より楽しいかと思われます。

 

私の結論と論理構築

他の人の結論と論理構築

その差異は一体どこから生じているのか、

より納得できる考えはないか等、

その先の楽しみが期待できます。

 

ではでは、私の結論と論理構築をご覧あれ。

 

優しさとは、

相手が優しいと感じる言動だと

考えます。

すなわち、個人に応じて

千差万別な概念だと考えます。

 

なぜなら、

優しさは、優しさを与えようとする側が決定できるものではなく、

優しさを受け取る側の感受性に委ねられているからです。

 

根拠を支える事実を列挙しましょう。

 

自分がこれは優しさだと思っても、

相手は全然そんな風に思っていなかったりってありますよね。

 

私の経験からですが、母は私の欠点を指摘し続けて改善させるように教育することが

優しさだと考えていたようですが、

私はそれを優しさだとは感じませんでした。

なぜなら、何を改善しても欠点を指摘され続けるので

自分は何を改善してもダメなんだ

と考えるようになったからです。

おまけに欠点を治すために、20人もの人格が形成され、

脳内が混乱するようになりました。

 

自分の考える優しさが、他人にとっての優しさかよく考えなければならない。

 

もしかしたら、「死にたい」と言っている人に「生きて」と言うことは、

自分の考える優しさであっても、死にたい人にとっては優しくないかもしれない。

死にたい人にとって優しいのは、「死んでもいいんだよ。」と言うことかもしれない。

 

 自分としては優しくするつもりで言ったわけではない言葉も、

相手は優しいと感じるかもしれない。

相手の優しいと、自分の優しいの不一致は悩ましい。

相手が優しいと感じる言葉にどれだけ自分も心からの優しさをのせられるか。

 

「無理しなくていい。」

「いっぱい休んで。」

相手がその言葉に優しいと感じて、甘んじ続けた結果、

社会復帰できなくなることもある。

それくらいなら、厳しい言葉をかけることの方が優しさじゃないか!

という方もいらっしゃるかもしれない。

将来的に、厳しい言葉について、相手が「あれは優しさだったんだ。」

と感じれば、それは優しさかもしれない。

社会復帰したせいで不幸だ、あの厳しい言葉は呪いだ

と相手が感じれば、それは優しさではない。

 

いずれにせよ、優しいか優しくないかの決定は、

相手に委ねられている。

優しさを与えようとする側が決定できるものではない。

 

ゆえに、優しさは、相手が優しいと感じることだと考える。

 

 

まとめ

優しさは、相手が優しいと感じること、だと考えました。

なぜなら、優しさは、優しさを与えようとする側が決定できるものではなく、

優しさを受け取る側の感受性に委ねられているからです。

根拠を支える事実として、自分にとっての優しさと相手にとっての優しさが一致しな

いケースを数種類取り上げました。

以上より、上記結論となります。