くるくる

このワケワカメな世の中への考察

憲法19条とアニメ『サイコパス』

日本国憲法とは、国民を国家権力から守るために制定された法です。

だから、最高法規として君臨し、政府を縛っています。

 

私が特に好きなのは、

憲法19条 思想・良心の自由

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」

 

法律は特に解釈が重要になってきますが、

通説として、この条文は、

内心における思想・良心の自由を絶対不可侵と定めていると

解されています。

 

これ最高ですよ。

 

例えばですけど、要は、

「あなたは内心において永遠に中二病でいてもいいですよ!」

って言っている条文なんですよ。

「ただし、内心においてね!

ひとたび外に出したら、思想の自由市場でぼこぼこにされる覚悟はしなよ☆」

思想の自由市場って言うのは、

表現物同士がぶつかることで精査されていく場のことです。

 

アニメ『サイコパス』のシビュラシステムは、

マジで19条に抵触しまくってダメですね。

内心を常時侵していますから。

つまり、槙島さんはただ憲法19条を復活させたかっただけ?

内心の自由の確保。殺人願望、悪徳思想、うんたらかんたら…。

槙島さんは、かかる内心を抱いた人間の選択に興味があったようですね…。

 

リンクしそうだから一応貼っときます。

https://fushiginokuni.hateblo.jp/entry/2019/10/25/221800

 

憲法19条はシビュラシステムの敵か。

 

冒頭にも書きましたが、

日本国憲法は国家権力から国民を守るために制定されているから、

それが改憲されれば、

利益の獲得と同時に、

国家権力へのガードが弱まることになりますね。

 

憲法19条を失った「シビュラシステム」みたいに。

国家安泰の利益の獲得と、内心の自由の規制許可。

 

憲法条文を一個一個失っていった社会体制想定するゲーム楽しい。

競争社会と好きな仕事

私はひたすらに競争社会が苦手だが、

それはなぜだろう?

 

私が一番持っている違和感は

「あなたに勝つことが私の目的じゃない。」

です。

 

私はあなたに勝つために仕事を

しているわけではないのに、

勝手に他者と比べて

優れているとかいないとか

評価され、

そのゲームで勝つ人間が優れている

と錯覚させられる。

優れていることは、

競争社会で勝つことだ

と錯覚させられ、それが目的となってしまう。

 

だが、好きを仕事にした場合、

仕事をすること自体、仕事を完成させること

が目的であるから、

本当は競争社会で勝つことが目的ではない。

 

その目的のすり替えが行われた場合、

途端に苦しくなる。

自分の「好き」が競争社会の道具に成り下がり

穢されてるとすら感じる。

 

正直、「好き」を仕事にした場合、

仕事をすること自体が目的であり、

もちろん成果を出したいけれど、

それが全てとは考えていない。

「好き」で競争しようなんて以ての外だ。

 

競争社会で勝つことを目的とするならば

嫌いだけど得意なことを仕事にした方が

良いのかもしれない。

嫌いだからこそ、その不快感から逃れるため

是が非でも得意になろうとする。

それで元々得意ならば成果が出やすい。

「嫌い」な仕事だから

「好き」が競争に服される不快感もなく、

むしろ、競争社会にのせて、

ゲーム性が面白くなってくるかもしれない。

 

私は競争社会が意識されないで

好きなことが出来る環境を職場としよう。

私の好きなこと

=意義のあること

=個人(社会)貢献

競争社会が意識されない環境

NPO

 

まじ、NPO就職すっかあ!

 

環境と欲望と人変

構造主義をご存知でしょうか。

構造(環境)によって我々の意思決定はなされているという考え方です。

 

この考え方を実体化した例があります。

電車の入口に人がたまる問題を解決するにはどうしたらよいでしょう。

構造主義の考え方を応用すれば……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

入口にポールを立てるのです。

そうすると人は勝手に分散します。

そういう実例があります。

 

スマホは、環境を作りました。

いつでも見たい情報にアクセスできる環境を作りました。

そうして人に環境を欲望させました。

その環境を手に入れた人を変えました。

多くの人が電車でスマホに向き合い続けるようになりました。

 

Googleも環境を作りました。

およそなんでも検索すれば何かしらの答えが出る環境を作りました。

そうして人に環境を欲望させました。

その環境を手に入れた人を変えました。

困ったらGoogle先生に頼るようになりました。

 

パチンコ屋があります。

一攫千金の環境が出来上がります。

そうして人に環境を欲望させました。

その環境を手に入れた人を変えました。

一攫千金の思い出が忘れられず、ギャンブル中毒になります。

 

環境を作ることは、人を変える有効な手段だ。

 

ここで一つ、アイデアがある。

 

私は学校や寮を地獄の別名と考えている。

最近は不登校児が増えているらしい。

私は、学校や寮といったおかしな空間から抜け出したいと考える学生は

優秀だと考えている。

 

不登校児が問題視される理由は何か。

将来就職できず、経済的自立が見込めないと判断されるからだ。

 

……なら、私が不登校児を積極採用する会社(環境)作ればよくね?

 

不登校児は怠け者ではなく、

学校に意義が感じられない、

ノリの文化で支配が決定する人間関係が理解できない、

という子もいる。

 

そういう子がもし学校に通わず、

本人にとって意義の感じられる分野で実力をつけ、

社会問題に関心があったりするならば、

私と一緒にソーシャルビジネスでもやらん?

 

このビジネスモデルのいいところは

学校に行かなくても経済的自立を果たせる選択肢を提示できるところ。

実力、実質ある不登校児を現状構造のためにつぶさないで済むこと。

不登校児問題とソーシャルビジネスで扱う社会問題と、

二つの社会問題を解決できるところ。

 

この考え実体化したいなあ。

誰か協力して起業してくれる人いませんかー!

自殺しない理由

自殺ー♪ 自殺ー♪

らんららんららーん♪

あんまりにも不幸が畳み掛けてくると、

笑うしか無くなるってあるよね。

 

なんで自殺しないのか。

 

・死後が今より地獄かもしれないから

 

この理由が最も自分を納得させる。

 

現状より地獄なんて

ありえないと考えるかもしれないが、

であればこそ、

死後、目の前に

現状と全く変わらない光景が広がっていて、

自分の感受性だけより繊細にされて

自由意志を奪われたら、

自由意思によって現状を変えることもできず、

ただ現状の辛酸をより繊細な感受性で

味わい続けるしかないという死後地獄

はいかが?

結構つらたんよー。

 

そうなると、

この程度の感受性で止まっているうちに

自由意思をもって、

何かを変えるしか無くなる。

 

現状も死後も何も変わらないという

無限に想定できる死生観の中に確かに存在する

この一つを選択するならば、

生きるべきか、死ぬべきか

もはやそれは問題では無くなる。

自分は自分から逃れられないことに絶望し、

それを覚悟して生き、死ぬだけだ。

 

上記、私オリジナルの自殺しない理由。

 

自分オリジナルの

自殺しない理由を作りたかったら、

死生観の選択というアプローチが使えるね!

自殺する理由も同様のアプローチで

構築できそうだ。

死生観の選択が生を決定する。

ふむふむ…。

 

みんなはどんな死生観かね。

 

 

 

 

 

人を殺さない理由

人を殺したくなる時があります。

 

なぜ殺してはいけないのか。

・相手の可変性も含めて抹殺してしまうから

・そういう人間が再び現れたときの対処方法を考える機会を失うから

・自分が刑務所送りにされるから

 

いろいろあると思うけれど、

私が一番怒りの頂点にいるときに

最も自分を説得できる論理。

 

それは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・生かしておくほうが、殺したいやつも辛いだろうから

 

あ、まあ、この理由って、相手を殺す理由としても使えるんだけどね。

オウム真理教とかは、これを殺人の理由にしていたね。

生きるのは辛いから殺してあげるっつって。

これが、愛の実体化なのだって感じで喋ってたよね。

そういう論理構築をしたわけだ。

 

同じ理由でも、殺人肯定、否定双方の理由として使える。

 

こうなると、人間社会で論理ってのは道具でしかなく、

数学における

真理に至る道といえるかは難しいなあ。

 

論理は、組みたい方向に組み上げられる。

組みたい方向を説得的にするために論理が道具として活用されているだけ。

 

論理的だから正しいというのは大間違い。

論理的だから説得的ではあるが、

その論理はいかなる精神を選択し、それを実体化するために構築されたのか、

ここによって論理の是非というものは判断される。

 

論理は是非の根拠にはならない。ただあるだけだ。

是非の根拠は、

いかなる精神を選択し、それを実体化しようとして組まれた論理なのか、

その一点にある。

 

私は、殺人による愛の実体化という精神を実体化したくないから、

生かしておくほうが、殺したいやつも辛いだろうから

という理由を殺人否定の根拠として使った。

オウム真理教の主張した、

愛の実体化ならば殺人以外の方法によることもできる。

手段がそれ一択ではなかろう。

 

殺人をしたくなったら、私はいかなる精神を実体化したくて

この行為に及ぼうとしているのかと考えてみるといい。

 

世の不平等に気づかせるという精神を実体化しようとして

殺人に及ぼうとしているかもしれないが、

他の手段もあるのになぜそれを選択するのか。

それは効果的か?

 

殺人が、世の不平等に気づかせるという精神を実体化するのに

効果的かと問われれば、逆効果である。

ワイドショーで人格破綻者は一人で死ねと言われるだけで、

世の不平等に気づかせるどころか、

恵まれていない人には近寄らないほうがいいという精神を

社会全体により強めるだけだ。

 

もっと現実的に、効果的に自分の精神が実体化される手段を考えよう。

私はそのお手伝いするよん♡ 連絡ちょ♡

他己責任を明確に定義したい。

自己責任、他己責任、環境責任。

今回は、他己責任を考える。

ケーススタディ方式とるでい!

1、レイプされた。

友達に相談すると、

「レイプされたお前が悪い。」と言う。

2、いじめられた。

友達に相談すると、

「いじめられるお前が悪い。」と言う。

 

…えー、あるあるですね。

なんですかこれは?これに反論したいです。

これらの主張の論理は、

レイプされる、いじめられる原因は

お前にある。

お前が性欲を喚起するような格好をしていて、

お前が弱い、

のが原因だ、という論理ですね。

 

ただ、この論理は、

性欲を喚起するような格好

=セクシーな格好をする自由

いじめる側としては弱いと認識されるが、

本人としてはありのままの自分でいる自由を

抑圧することを強制しています。

 

その代わりに、

セクシーな格好をしているなら

レイプができる自由、

いじめる側からすれば弱そうに見える、

ありのままの自分を表現している人間は

いじめてよい自由を主張しています。

 

無理無理ー!そんなの耐えられないよ!

なんでセクシーな格好をして、

ありのままの自分でいる自由が抑圧されなきゃいけないんだい。

 

という訳で、せっせと論理構築。

 

「相棒」の右京さんは

こんなことを言っていました。

「人を殺したくなっても、

そうしない選択をするのが人間です。」と。

 

ここから、人間の内心を願望と選択という

2つのフェーズに分けてみましょう。

レイプしたいと望んでも、

いじめたいと望んでも、

それを選択しないのが人間です。 

 

願望を喚起する原因が相手にあれど、

選択の原因は個々人の自由意志にあります。

 

レイプ、いじめの原因は、

願望の喚起ではなく、

加害者の選択にあります。

願望が喚起されても、

それを実行しない選択肢もあります。

選択は、

被害者が原因となるものではありません。

加害者の自由意志が原因です。

 

責任を問える場合というのは、

願望の原因を作った場合ではなく、

選択の原因を作った場合と言え、

選択の原因は自分の自由意志に他なりません。

 

他己責任とは、

他者の選択に課される道義的責任

と、定義されると考える。

 

 

 

愛(人間関係)について

愛とは何だろう。

愛は人間関係のある所に発生していて、

愛が最も表れているだろうと想定される

恋愛では、

嫉妬、束縛、独占、支配、所有、依存

なんて結構デメリットが浮き上がっていて

これが愛?

そんな愛ならいらないな。

友達とかわす愛のほうが健全だな。

友達関係では、

誰かが誰かと仲良くしているからって、

そのこと引きはがして自分と常に一緒にいるようにするのは

愚かだと子供時代に学んでいる。

なのに、恋愛ではそれが愚かとされないのはなぜ?

恋人や友達が他の人に愛情を向けることは

自分への愛情に対する裏切りではないのに。

個別具体的に愛情を送っていて、

それらは比較できないものなのに。

この子さえいればいいなんてことはたいていなくて、

この子もこの子も一人一人

かけがえもなく大切なんだって思って

愛を送っているのではないの?

個別具体的に愛していて、

代用が効かない。

 

私は恋愛という形式に愛を求めない。

また自分の秩序を作ろう。

私にとっての愛とは、

相手の権利自由、独立自治を応援する愛だ。

それは相手を孤独にするのではなく、

相手が幸も不幸も、成功も失敗も味わう自由を謳歌するのを見守り、

相手が自分で自分を救えなくなったら、

黙って抱きしめてあげる。

そしてまた、相手の元気が出たら

「いってらっしゃい。帰ってくる場所はあるから安心していっておいで。」

って言う。

楽しいことがあったなら、私も一緒に楽しいことを話す。

私も自分で自分を救えなくなったら、

ちょっと抱きしめてほしい。

そして再考して、再び立つ。

 

愛(人間関係)に新しいスタイルを。